黄色いブログ

ヤフ風呂で、キャンディーズブログを書いていました。ヤフーが閉じてしまったので、こちらに引っ越してきましたが、操作ミスで全ての記事を削除してしまい、1からの出直しです。

7月17日だねえ

1977年7月17日、日比谷野外音楽堂にて、キャンディーズが「解散宣言」をしました。
「私たち、今度の9月で解散します」。ランちゃんが、涙を浮かべながら、振り絞るように絶叫しました。
「普通の女の子に戻りたい」という名言がでたのも、この日です。(78年4月4日のファイナルカーニバルで言った。という誤情報が、沢山流れていますが、騙されないようにしてください)
ここまでは、だれもが知っている、ウィキペディアでも分かる情報です。(ただし、伊藤蘭でググっても、ウィキペディアに到達するのは大変です。「伊藤蘭ウィキペディア」で検索してください。)

 

この7月17日の「解散宣言」は、スタッフも誰も知らず、3人で決めて、会社の了解を得ずに、「宣言してしまった」というのが、社会の定説です。
キャンディーズのバックバンドは、MMPというバンドでした。キャンディーズは、当時のアイドルには珍しくライブ活動に力を入れていたので、同じ事務所のあいざき進也のバンドをしていたMMPを引き抜いて、キャンディーズ専属にしました。
MMPのメンバーは、若干の入れ替わりがあり、ドラムスの王子聡さん(演奏の音が大きいことと、名前から、ダイナマイト・プリンスと呼ばれていた)は、1976秋に加入しました。それまで、定着した仕事がなかった王子さんは、キャンディーズのバックバンドに入ったことで、これで当分は仕事は安泰だ。と安心しました。
その王子さんと、小岩の飲み屋を3~4軒はしごして、始発まで飲み明かしたことがありますが、王子さんも、その日(7月17日)、キャンディーズが解散宣言するなんて、全く知らず、バックで演奏しながら、「キャンディーズが解散してしまったら、これからの生活はどうなっちゃうんだ。」と考えたそうです。その飲み明かした日に、直接聞いた話ですから、間違いありません。

 

さて、解散宣言の話をするには4年前、キャンディーズのデビュー当時。よりも、もっと前に遡らなければなりません。
ウィキペディアでも分かる情報として、キャンディーズ渡辺プロダクションの所属です。渡辺プロダクションには、若手養成所として東京音楽学院があります。そこの学生の中から、有望な子がスクールメイツに抜擢されます(スクールメイツは、ジャニーズJr.と思えば良い)。
歴史的事実としては、ランちゃん、スーちゃんは、1969年に学院に入学。ミキちゃんは1年遅れて、1970年に入学します。3人とも、スクールメイツに抜擢されます。
この1969年に、3人は、奥多摩のキャンプ場で偶然に知り合い、意気投合し、3人で一緒に歌手になろう。と固い約束を交わします。その証として、それぞれお気に入りのアクセサリーを、河原に埋めたそうです。
固い約束に従い、ランちゃん、スーちゃんは、69年に学院に入学しますが、ミキちゃんは両親に反対され、説得するのに時間がかかり、1年遅れで入学をした。と説明されています。
キャンディーズの3人も、番組のインタビューなどで、奥多摩のキャンプ場で知り合ったんですよね。などと尋ねられると、「え、ええ」と曖昧に肯定していました。決して、明るく「そうなんですよ。奥多摩で偶然会ってね、スグに仲良しになったの」とは答えていません。
当時のファンは、この奥多摩伝説を、本人たちも消極的ながらも肯定するものだから、信じ込んでいました。解散後に、これは、売り出すために会社が作ったストーリーだったことが明らかになっています。(ウィキペディアでは、諸説がある。となっていて100%の否定はしていませんが、熱心なファンの間では公知の事実となっています。当時、信じ込んでいたファンの中には、そのまま信じ続けている人もいるでしょう)

 

ランちゃん、スーちゃんがスクールメイツに入ったのと同期で、太田裕美も入っているので、太田裕美キャンディーズになっていたかもしれない説。がかなり根強く語られます。太田裕美とは、音楽性も違うし、声質が違うのでハーモニーが完成しないので、この可能性はゼロだったと断言できます。太田裕美自身が否定する発言をしています。

 

 

ちょっと、端折って、1973年9月1日、キャンディーズは、Sakuragiさん大好き「あなたに夢中」でデビューします。このとき、キャンディーズは、渡辺プロダクションと3年契約を結びます。3年契約ということは、1976年8月31日まで。だったでしょう。実際の契約書を見ていないので、確認する術はありません。
3人にとって、キャンディーズは、活動の終着点ではなく通過点であり、3年間は必死に頑張って、その後の自分たちの進む道は、その時に考えよう。という気持ちだったと思われます。
1976年4月に、最年少のスーちゃんが成人します。丁度良い区切りと考えたのでしょう。

 


3年契約でしたが、なかなかヒット曲がでません。当時は、シングルレコードは、1年4曲、3ヶ月周期で新曲を出すのが常識でしたから、翌年9月には、5曲目が発売されても良い時期でしいた。しかし、1974年9月1日は、4曲目の「なみだの季節」が発売されました。1曲分、少ないです。
つまり、キャンディーズは、渡辺プロダクションにとって、目玉商品ではなく、どちらかというとお荷物でした。「全員集合」にレギュラー出演すれば、それなりの人気はあるのですが、曲のセールスという面では、劣等生だったのです。
3年契約だったのですが、1年経つか、経たないかの時期に、「キャンディーズを解散させて、(当時センターだった)スーちゃんをソロデビューさせよう」という企画が出たほどです。
3人は、その情報をキャッチし「私たちを事務員にしないでください」と直訴の手紙を書いたとも言われています。

 

デビュー当時は、最年少ながら、一番歌唱力があり、一番可愛らしいスーちゃんをセンターにして、スーちゃんのイメージに合わせて「内気なキャンディーズ」路線を繰り広げたのですが、成功しませんでした。
転機になったのは、1975年2月21日発売の5曲目「年下の男の子」でした。レコードデビューして1年半。当初はそれほどでもなかったランちゃんに色気が出始め、ファン層の中心である大学生たちのランちゃんを見る目つきが変わったのです。それを察知したスタッフが、「センター入換」という大手術を行い、「内気な女の子」から「年上のお姉さん」路線に切り替え、「年下の男の子」でスマッシュヒットを起こしました。
このヒットにより、3年契約の途中打切話は、立ち消えになりました。

 

キャンディーズの代表曲は、何故か、春にヒットします。
1975年2月21日発売の「年下の男の子」はもちろんのこと。
翌1976年3月1日発売の「春一番」は、キャンディーズを、一躍トップアイドルに押し上げました。
さらに、1977年3月1日発売の「やさしい悪魔」は、キャンディーズの新境地を開き、網タイツが、少年たちの男5キロを刺激しました。
1978年2月25日発売の「微笑がえし」は、初のヒットチャート1位を獲得しました。
キャンディーズは、結局「年下」「春一」「悪魔」の3曲で、3年連続で紅白歌合戦に出場を果たします。「微笑」もヒットしたので紅白の可能性はありましたが、解散したので、その夢は叶いませんでした。

 

さて、お気づきでしょうか。
1976年「春一番」と1977年「やさしい悪魔」の間に、3年契約は満了しました。
渡辺プロダクションは、延長を希望します。恐らく、3年延長を申し入れたのではないでしょうか(個人的推測です)。しかし、キャンディーズは1年契約を選択します。
あくまでも、キャンディーズとしての活動は、青春の1ページに過ぎず、次のステージに進みたい。という強い意思が感じられます。


しかし、1年が経過すれば、また、渡辺プロダクションとの契約交渉が待っています。3年連続でヒットを飛ばし、紅白にも連続出場している「ドル箱歌手」ですから、渡辺プロダクションが、そうそう簡単に手放すとは思えません。(解散&スーちゃんソロデビュー計画とは、正反対になりました。ヒット曲の力です)
しかし、キャンディーズには、契約を再延長する意思はありませんでした。

 

状況証拠を総合すると、1976年秋に締結した1年契約には、「契約期間満了の6ヶ月前までに、「契約を更新しない」と書面で通知しないと、自動更新となる」という条項が入っていたと思われます。
仮に、契約満了日が8月31日だったと仮定すると、6ヶ月前は2月28日です。意外と早いですね。冬の間に、結論を出し、書面を提出しなければなりません。
2月28日を迎える前に、キャンディーズの3人は、担当プロデューサーや渡辺晋社長と、水面下で交渉していたでしょう。担当としては、ドル箱スターを、簡単に失いたくはありません。しかし、渡辺晋社長は、キャンディーズの意思を尊重したい、という気持ちがあったようです。残念ながら、長年の癌闘病が悪化し、社内での影響力が低下していました。
契約を更新する・更新しない。話合いでの結論がでないまま、2月28日が近づいてきます。
懸命なキャンディーズは、2月28日よりも前に、契約を更新しない。という書面を内容証明郵便で、渡辺プロダクションに送りました。これで、法的には「更新しない」という結論がでました。
しかし、渡辺プロダクション側は、必死に慰留交渉をします。(と並行して、9月以降のスケジュールも埋めていきます。キャンディーズが翻意してくれた場合に備えての営業活動ですし、9月以降のスケジュールを入れないと、業界内に解散がバレてしまうからです。大人って、汚いですね)
でも、キャンディーズの気持ちは固まっていました。

 

のちに、ランちゃんがインタビューに答えた映像が残っています。
ランちゃんが、(要約)「私たちのコンサートに沢山のファンの方たちが集まってくださるでしょ。コンサートの終わりに、私たちも一生懸命歌っていきますので、応援よろしくお願いします。って言うんですけど、私たちは、もう9月で解散するって決まっているのに、その言葉を言うって、嘘になるでしょ。それがとっても辛かった」と述べています。

 

前にも書きましたが、キャンディーズは、積極的にコンサート活動を行い、全国を回りました。1977年春には、「やさしい悪魔」のヒットに便乗して「デビルキャラバン」で全国を回りました。
1976年の「サマージャック’76」に引き続いて、1977年夏は、「サマージャック’77」が開催されました。問題の7月17日は、ツアーの初日でした。

 

このときのキャンディーズの気持ちを想像してみたいと思います。
2月に、契約更新しないと内容証明を出したので、契約上は決着している。
にもかかわらず、会社は慰留でウルサい。
私たちは、9月で解散してしまうのに、それ以降のスケジュールもドンドン埋まっている。それは困る。
そして、なによりも、9月で解散するのに、コンサートで「これからも応援よろしくお願いします。」という嘘は、ファンを裏切ることになるので、言いたくない。

その上での苦渋の決断として、自分たちが一番大切に思っているファンの前で、私たちの気持ちを伝えよう。と解散宣言に至った。と考えられます。

 

キャンディーズの解散宣言を聞いた渡辺晋社長は、キャンディーズに「いいよ、夢を与えてくれてありがとう、そしてお疲れ様」と解散を許したそうです(ウィキペディアより)


出典が分からなくなっているのですが、昔、どこかで読んだ史料の中に、ランちゃんが解散宣言を切り出す前に、ミキちゃんの方を向き「言うわよ」とアイコンタクトをして、ミキちゃんもアイコンタクトで答えて、ランちゃんの決心が固まった。という話もありますが、何度、映像を確認しても、そのシーンを見つけ出すことは、僕にはできませんでした。ご存知の方は、ご教示ください。